昭和41年04月24日 朝の御理解
お道の信心以外の信心を私はよく知りません。ま、専門的な事は分かりませんけれども、例えば、仏教なら仏教に致しましても、沢山な仏様がおられますですね。例えば、お山等に登りますと、沢山の仏様がお祀りしてございます。その中には、様々な形相をしたまあ、お不動様の仏様もござるかと思うと、お観音様もござる。第一如来様とかと、それこそ沢山な仏様がおられます。そして、それぞれの、やはり専門、それぞれの働きというものをなさるという事でございます。
これはあの、神道でいわゆる神様の事を申しましても同じですね。何々の神様、例えは特に、武運長久を祈る専門の神様、丁度ここ辺りで高良山様のような神様は、戦争の神様と言われておりますよね。宮地嶽さんのような神様は、開運の神様というように、その沢山な神様方が、いわゆる八百万の神々がおられる訳なんです。私はそれが、どういう意味なのが分かりませんけれども、私は、お道の信心にもそれがやっぱなからなければ、いやあるんだと私は思うんですね。
天地金乃神と教祖の神様の御信心が、ま、同根なりとまで言われるところまで、御信仰をお進めになられた。そしてその直神先輩の先生方、お徳を受けられた先生方の御信心を見ておるとですね、やはり確かに、あの学徳の優れたお方、祈念力の優れられたお方、もうその様々です。いわゆる、金光大神というのは、お一方ではなくて、幾人もの金光大神がおられるのですよね。
この方の信心は、病気治しやら災難避けの神ではないと、心治しの神じゃと、まあ仰るのでございますけれども、成程、どのようなおかげでも、勿論そこに焦点をおかなければならんのでございますけれども、やはり金光大神の御信心を頂かれて、そして次に金光大神も沢山おられますけれども、後に沢山おられる。実際、お道の信心のその時代の事を、まあ紐解いてみますとですね、金光大神は笹岡にもおられた。笹岡の金光大神とか、又はもう一人、何処でしたかね、何処じゃったかね、笹岡と、片岡次郎四郎という先生もやはり、金光大神の御神格を受けておられた。
高橋の明神様といったようなお方は、やはり金光明神としての御神格を受けておられた。ように、その後、この神格という事を、国の掟で使う事が出来なかった。何処の何々明神様なんていうような表現をする事は出来なくなったけれども、ほんならその内様に、神様の世界に於いては、やはりあると思うんですね。これは私が頂いておる範囲だけでも、例えば甘木の初代の安武先生も金光大神の御神格を受けておられます。
初代の小倉の桂先生もお亡くなりになられたその後に、金光、その時分は、小倉の明神様と申し上げた、けれども、御神格が進まれて亡くなられたその後に、金光大神の御神格を受けておられる。久留米の初代もやっぱりそうである。ですからお互いの信心が、段々進んでいくに従って、その神格というものが、その受けられる事が、それを呼ぶ事は出来ないに致しましてもです。実際において、だから私共は、霊様の御拝礼を申し上げる時に、小倉の金光様という風に申し上げるんです。
霊の呼ぶよりか、小倉の金光様と申し上げたほうが早い、という位にですね。そのこれは信心の世界での、もうひとつ、いうなら、奥の世界でございますけれども、まあそういう段に於いてですね、やはり様々な、なら、そういう金光大神の御信心の中にも、沢山ないわゆる神様がおられまして、その御神格を受けられました 神様達がそれぞれの、私は、役目をもっておいでというても良いと思うんですね。
まあそういう意味合いで、別に私共が、御神格を受けておるという訳ではないに致しましても、もし、椛目がまあ、私が御神格を受けるとするならばです、どういう意味の御神格を受けるであろうか。確かにあの、もう本当に病気でですね、九死に一生を得られたと、もう助からないところが金光大神のお取次によって、健康のおかげを受けられて、その感銘がその感激がです。
又人をも助けなければおかんというような事で、お取次をはじめられた先生方のところでは、もう、確かに、まず病人さんが多いです。これは不思議です。例えばここの場合なんかでもそうでしょうが。私が大体が商売人ですから、出が。ですからここではもう、まず、ほとんどが商売人の方です。本当に、不思議な位です。
例えばここと、私の親教会の善導寺と、こことは、たった三合ぐらいしか離れていない道のりのところですけれどもです。あちらでは、あちらのタイプの御信者さん方が集まられる。ここには、やはり私タイプの御信者さん方が集まられる。同じめぐり、同じ難儀、そういうようなものが大体こう釣り合うてくるように思います。
いわゆる、専門専門がある訳なんですね、いうならば。ですからまあ、ここでは例えばお百姓をなさっておってもです、例えはなら、上滝さんがお参りになっおられるすけれども、お百姓さんです。それでいて、やはり、ここに御神縁を頂かれるようになってから、やっぱり半農半商という事になっておられるでしょうが。化粧品を商うておられます。もう此処の見てごらんなさい、もう本当に、こういう中の真ん中にあってです、準お百姓さんというのは、もう幾人しかおられません。というくらいにですね、私はあのですから、久富繁雄さんあたりのご兄弟に言うんですよ。私は百姓の事は分かりません。
教祖の神様はお百姓のお方であり、もう土の中から生まれたような、宗教だと言われておるんだけれど、実を言うたら、私自身が、泥の本当の有難さがわからんのです。ですから椛目のひとつの旗頭としてです、もうお百姓の事ならば、農業の事ならば久富さんに聞け、久富さんのおかげを受けておられる状態を見たら、あれでおかげを受けられるという位なです、お徳を受けてください。
神様は久富さんの事を、地蔵の徳と仰るですもんね。地の蔵と書く。ですから、そういう本当に、お徳を受けて下さいというように申しますように、私の此処ではです、私のもっていない面を承っておる方達があるんです。ですから、ひっくるめて、ほんなら、私のここをもし、金光様の中でもです、どういう専門を承っておられるかと言うと、皆さん、どういう事だと思うんですか。
私昨夜ですね、もう皆さんが帰りましたのが、もう十二時を過ぎでございましたでしょうか。それから必ず私は、御初穂の整理を致します。御初穂の整理が終わりますというなら、今日の売り上げですね、商売人で言うなら。毎日毎日その今日のいわば御初穂のお下りをです、今日は幾ら幾らのお下りがございました。これはどうぞ又あなたの御用にお粗末御無礼のないように利用され、使われます事を神様にお願いさせて頂くです。
そしたら、今日私が、お話を皆さんに聞いて頂いておる、丁度、いうなら、お山のですね。そのずっ-とあの、石で作った仏様がお祀りしてございますでしょうが。ああいう感じで頂くんですよね。そしてここが、これが椛目の、いうならばその神格というか、神様というところの前に、もう沢山のキンセンカがお供えしてあるところを頂いたんです。キンセンカというお花があるでしょう、今咲いてます。
ははあ、そうして私は思うたですね。ははあ、椛目はどうも銀行のようなもんだ。もう金銭の事なら椛目にもってこい、病気ならば専門専門があるという、もし、言うならばです。椛目はもう、金銭のことでだけなら、不自由はさせんという私は神様だと思うですね。もう金の事だけなら。成程、そういうてみると、私の事を、もう十何年も前にお徳を受けた先生方が、様々な表現で教えてくださったが、私の場合は、あの大黒様をもって表現して下さった。
いわゆるその私に、そういうお徳を受けておるというのではないけれども。椛目はこういう専門ぞと、こういうところを受けもって行くのぞと、いう事を教えて下さったように思う。どうぞお金が足りません、幾ら、はい幾ら、ぱっと、打ち出の小槌を打ち振ればです。それが本当にたちどころに、おかげの頂けれるような、いうならばです、分かりやすくいうならば、そういうおかげの一番受けられる、濃厚な、いわば、場を椛目は受け賜っておるのだ。してみると、成程、金々というのはまず、商売人が多い。
成程、椛目では商売人が多いはずだなあと思うんです。椛目の人達は、も、みんな金に難儀をしてないかと言うと、金に難儀をしておる人達が、だから集まっておるとい事になります。もう、先生、明日、幾ら幾らの手形で、これこそ時間ぎりぎりにおかげを受けておりますね。椛目の方達は。もう不思議な位です。
ですから、ほんなら例えば、椛目にお参りさせて頂く方達がです。もう、金なら、もう、要らんという方達はありますまい。まず私は、お金のいわば、金銭的、いわゆる、経済的の本当に裕福なおかげを頂かして頂かねばならんが、只今、私が申しますように、私がもっと徳を受ければ、いざ知らずでございますけれども。ほんなら、たちどころに打ち振りだしてあげるという程のものもないのでございますから、もう銘々が打ち出の小槌的なおかげ、お徳を受けなければならん。
そういうおかげの一番受けやすい場に、椛目はあるんだと。そういう役前を椛目は果たさなくてはならんのだという事を、一つ自覚して頂かねばならんと思うのです。そこでです、そこで、ほんなら、打ち出の小槌的なお徳を受けるという事には、どういう事にならなければならんかという事になるです。
もう、金を粗末に扱う人なんかに、打ち出の小槌的な徳の受けられるはずは絶対ありませんよ。昔の、私共の子供の時分の、あんな言葉がはやり、標語が覚えております。一銭を笑う人は一銭に泣く。今頃一銭といったって、そのピンとこないですけれども、まぁいうならば、今頃で言うなら、十円位でしょうね。十円を笑う人は十円に泣かなければなりません。ですから、その本当にその十円の金の尊さ、有難さというものを、まず分からなければ私は、打ち出の小槌的な徳は受けられないと思う。
十円、二十円なら、ざ-っと使う。それが千円、一万円になると、もう押し頂くようにするけれども、これではおかげは受けられん。これは私の本当にもう、勿体ない位におかげを受けておりますけれどもです。私共では、もう子供達が五円という金でも、いわば別に乱費は致しません。無駄使いは致しません。もう、家内が例えば、十円の金を使わして頂くでも、いちいちここに頂きにきます。しかも私は、いうなら、それを何に使うのかと、それは五円にしとけ。もう私は、本当にもう本当にあの、そげん厳しゅう言わんでもよかろうという位に私は、厳しくいたします。
何故って、皆さんの本当に真心の込められたものなのですから。それが無駄になるような事であってはならんという事だけではなくてです。只今申しますように、どうでも私、金銭の徳、勿論お徳の中には健康の徳、お金の徳、物の徳、人の徳、神の徳と五つの徳を受けさせて頂くという事がです、人間の幸せだと言われております。これは私の頂いておる御理解の中に、五つの徳、五徳なんです。その為にはね、あの五徳のような信心がでけにゃいかん。ごとくというのがありましょう。
火鉢の中にこうやって差し込むのです。例えばそれこそ火の中に差し込まれるような事があってもです、熱い思いをするような事があってもで、じっと辛抱し抜かせて頂くような信心から、五徳が受けられるというような事を頂きましたけれども、その中の今日は私は、金銭の徳とういう事について特に私は、皆さんに聞いて頂いておる訳です。しかも椛目がです、その金銭の徳という事を、どうでも受けるのに一番受けやすい。
何故、私が金銭でもういやというほど、もう、これこそね、もう根限りの苦労をしておる事でございます。もう、金銭でならば、本当にもうこれだけは、誰も負けんだけの私は修行をしておる。これもいわば貧乏しておるという事です。過去において私は、ですから十円の金が私は、お粗末には使われんです。
同時にです、私はね、その十円の金の生かせれる人、一万円の金が生かせれる人、持っておる金が本当に生かされる人、私蔵したんでは私は、決して金銭の徳は受けられないと思う、そのお金が生き生きとしていわゆる、生き金という事を申します。神様のお喜び頂かれる事の為に、人の世の為に、お役に立つ事の為に、その持っておるお金が生き生きとして利用使される時です、必ずその人はお金の徳を受けるでしょう。
これは私が、そういう徳を受ける為にという訳でもなかったんですけれども、もう神様が無尽蔵、無限、無一物の中から無尽蔵のおかげを下さる事の確信が、段々でけてまいればまいります程に、私は、もう金銭欲というものは、まず自分ではとないと思うとる位です。本当ですよ。ですからここぞという時には、私は、本当にもうそれこそ、これはあの十三日会があります前までは。
椛目のお供えは、親教会と御本部に、全部行きました。ここにあの、ここが始まって五年間というものはです。もうそれこそ、お賽銭箱であろうが、御初穂箱であろうがです、もしお金を貸して下さいとか、くれとかいう人には、私は、お賽銭箱をひっくりかえして、みなんあげました。もうここでは知らない人でも。私は、自分から、百円でもやった事はありません。
けれども、先生下さいという人には私は、もう、これは本当で、お賽銭箱ひっくりかえしてみんなに私は与えました。五年間だった、これはもちろん私と神様の間に、一つ約束がございましたから。勿論当時、貸しっぱなしになっておる。あげっぱなしになっておるという方も沢山あります。しかし問題じゃないそれは。私の金じゃないんだもん。そういう意味合いで私には、金銭欲はないなあ。
いよいよ金銭の徳を身に受ける為にです、受ける為にといった訳じゃないけれども、もし、私が段々受けていきよるとするならです、もう本当に、も、椛目の場合は本当にですね、私がどれだけの徳を、現在受けておるか知らんけれども、本当にその程度の事ならばです、も、一つも必要な金が必要に応じて頂けておるという事実があります、椛目では。他の事は受けきらんでも、これだけは受けておるです。
為にまず皆さんがです、皆さんが頂いておられるその金銭を、私の物と思わずに神様の御物としてこれを大事にお預かりしておるんだと。それは十円の金でもです十円を笑う者は必ず十円に泣かねばならんと私もやっぱり思う。お粗末にしちゃなりません。同時にそれが一万円の金でありましてもですいよいよここぞという時にはそれを生かして使える時にはです、それを生かして使えれる私はおかげを受けなければ駄目だと。
私はですね、金銭の不自由をしない、お徳を受けさして頂くのは、椛目にお参りさせて頂けばです、もう金銭の事だけならばおかげを頂くという事には、そういう私は信心が、まず修行がなされなければならないと。そこに、はじめて椛目に御縁を頂いておる、まあ、ほとんどの方がお商売人ですね。一つの事業をしておられたり、お商売をなさっておられる方達がです。
もう、無尽蔵にお金にだけは不自由せんというようなおかげを頂かれる為にです、私は共に、そういう修行が本気でなされなければならない。勿論私は、椛目の信心をです、いうなら、まぁ変な表現をいたしましたですね。仏様にでも神様にでも、やはり、八百万の神々様があるように、仏様の中にも様々な仏様が沢山、人相の違った仏様達が、役前の違った仏様達がござるようにです、金光教にもあっていいのだと。
その中を、例えば何というでしょうかね、病気専門の神様、お金専門の神様というのがあって良いといったような表現を間違えますと、大変な間違いになりますけれども、確かにそういう事実がある事だけは間違いないです。そこの先生が、例えば、病気でおかげを受けられた先生のところには、確かに病人がどんどん助かっておる。金銭でいよいよ、根限りの修行をなさった、例えばあの、これなんかはまあ、私のいうなら親玉のようなおかげを受けておられるのが、玉水さんですよね。
大阪の。玉水の湯川という先生は確かに、大体が、商売人の出であった。そしてやはり根限りのその商売の事についての難行苦行をなさった。それが現在の玉水の御比礼になってるんです。もう本当、大したもんですよね。、そういう事をしちゃいかんというてもです、もう、とにかく日に何千人というお参りがあるんです。表にあの八ツ波のご紋章のついた、門柱が立ってるんです。それが黒光しよる。お参りはせん、只、もうあんまりお参りが多いもんですからね、表を通る時にはね、わざわざそこに廻って商売人が、その前を通るそうです。
そしてからあの八ツ波のご紋章を、こうこやって、撫ぜて行っただけで、その日は商売の繁盛のおかげを頂けるというような迷信と言われておるけれども、迷信ではない、そういう信心が玉水にはあるです。ですから八ツ波のご紋章が黒光りしよる。みんなが撫ぜて行くだけで、撫ぜていくでけで、その日金銭に不自由せんという位なです、やはりお徳を玉水はもっておられたんだと私は思うです。そういう事は金光教的でないから、そんな事をしてもろうちゃ困る。そんな迷信的な事をしちゃ困るといわれても事実は確かに、そういう事が事実なのです。
ですから椛目あたりでもです、表にまで来て、ちょっとこう柱を撫ぜて行くだけで、金銭の不自由せんですむ位の徳がです、椛目の信心の全体の中に溢れるようなおかげを頂く為に、勿論中心の私がもっともっと、修行させてもらわなければならん事は、勿論ですけれども。大黒様の徳を、本当に私共が目指して貰うという事は、私だけではない。皆さんもやっぱり、打ち出の小槌的なおかげを頂く為に、無尽蔵なおかげを頂けれる為に、私が申しますような、いわば、今日ね、そこんところに焦点をおいた訳でございますけれども、一銭を笑う者は、必ず一銭に泣かなければならない。
十円の金でも本当に押し頂くという気持ちというくらいに、大事にされるところに金が喜ばないはずがありません、もし、金に命があるとするならば。その金が本当に生かされる、私蔵されない。そこに例えば、金が集まって来るのは、勿論の事だと私は思う。殺されるより、生かされた方が良いでしょうもん。だから生かす事、大事にする事、ここんところを徹底させて頂いて、初めて、金銭の徳が身に付いてくるのじゃなかろうか。そしてここに思わせて頂くことなんでございますけれども
。先程、五徳という事を申しましたが、健康の徳であろうが、物の徳であろうが、人の徳、金の徳、神の徳の五徳という五つの徳がです、おかげを受けるという事になって参りますとです。ほんなら私は、金銭の事をお繰り合わせ頂いたばってん、体の事はお繰り合わせ頂っきらんという事は絶対にないて。いうならば、それは応用問題なのだと。一つの算数なら算数の勉強をさして貰う。こ
の事は勉強が出来たけ分かったけれども、それを実際の応用問題が出来るようにならなければならないように、金銭の徳を本当に受けたら、物の徳も、健康の徳も受けられるだけのところまで行かなければならん事は勿論です。受けるこつ合いというのは同じ事、計算方法は一つ、けれども、それを特別、例えば、クロ-ズアップするならばです、椛目の場合は、何というてもやはり。
私自身が金銭に、もうそれこそ、いうなら、難行苦行致しておりますから、やっぱ椛目は商売の神様だという事になるのじゃないでしょうか。金銭のいわば、おかげの頂けれる御広前とい事が、濃厚になってくると私は確信いたします。それをやはり皆さんも、そこんところを頂いて行く為に、只今私が申しましたようなですね、信心をなさらなければいけないと思うのでございます。
どうぞ。